雨傘と、初彼。
今週のお題「傘」
雲ひとつない夏の日、路上で、黒い雨傘を差し出してきた人がいた。
当時、お互い17歳。のちの、初めての彼氏だった。
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「傘」というと、雨の日を思い浮かべる人が多いだろう。
この季節だ、雨にうたれる紫陽花や、雨にけぶる水田。そんなものが脳裏に浮かんだりするんじゃないだろうか。
家の中で、ずっと振り続けている雨音を聞いていると、そういう美しい風景を見たくなる。
だけどわたしの場合、「傘にまつわる思い出」ということばを聞いてまっさきに浮かんだのは、暑い暑い夏の日だった。
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高校2年生の夏休み。
受験を翌年に控えて、わたしたちは京都にきていた。
大学のオープンキャンパスに参加するため、というのが名目である。
担任は、今のうちにいろんな大学を見ておけと言った。
オープンキャンパスに行けば、学生の様子も分かるし、大学の雰囲気をつかめるぞと。
だが、実際に赴いて志望校を決める高校生はどれくらいいるだろうか。少なくとも、地方の片田舎に住んでいたわたしの周りでは、そんな発想のない子がほとんどだったように思う。
しかしよいチャンスである。なんのか。
大手を振って外泊するということの。
高校生にとっては、親抜きでの旅行はまだまだハードルが高かったから。
担任の言葉に「これは!」と思ったわたしは、さっそく親に掛け合った。夏休みに京都に行かせてほしい。大学を見てくるから、仲良し3人組で出かけてもよいか。ついでに2泊ほどしてきてよいか。
すると、
「女の子だけで行くのは危ない。男子も連れていきなさい。それなら許す」
というのが、答えだった。
ふつう高校生ともなれば、男女で旅行に行くほうがヨロシクないんじゃないか。
「何かある」という心配はないのか。
そう思ったが、都会のストレンジャーより、身近な男子のほうがよっぽど信頼できるというのが親心なのかもしれない。
それならばと、わたしは同級生の男子2人に声をかけた。
ひとりは、本当にその大学を目指している人。もうひとりは、その人と仲が良く、かつわたしの友達に思いを寄せている人。おせっかいかもしれないが、旅先で距離が縮まればという狙いもあった。
ふたりとも、二つ返事で快諾してくれた。
そんなこんなで、男女5人で京都にやってきた。
もちろん、オープンキャンパスもしっかり参加した。理系文系のまじった5人組だったので、みんなで回れるように、いわゆる教養学部的なところを選んで。まあ、完全なる冷やかしである。実を言うとわたしはほんの少しだけその学部に興味があったのだが、他のひとからすれば、受ける予定がまっったく無いところを見物させられたようなものだ。
よくついてきてくれたと思う。特に男子たち。
ひとりは好きな子が一緒だからという理由があるが、もうひとりにいたっては、そもそもオープンキャンパスというものに価値を感じていないようだったのに(なんでも、どうせ受けるから別に見なくてもいい、という態度だった)。
オープンキャンパスに参加した翌日は、朝から蝉の声が降り注ぐ、真夏日だった。
わたしたちは、京都観光といったらコレというような、おきまりのルートを回った。
市バスの206号系統を利用して、祇園から八坂神社、清水寺へ。たぶん今よりは京都の国際的な知名度も低かったのだろう、海外の観光客は今ほど多くはなかった。が、それでも人で溢れかえっていた。
お昼どきだったろうか、途中、友達のひとりが軽い脱水症状を起こしてしまった。もう少し常識があれば、ちゃんと水分を持って、時々喉を潤しながらうろついただろう。いかんせんまだ17歳、そのあたり、わたしたちはまだまだお子ちゃまだった。
その子がいきなり、
「もう歩けない」
と立ち止まるもんだから、一同あわててしまった。見回しても、自動販売機もコンビニもドラッグストアもない。人がわたしたちをどんどん追い越していく。
とりあえずすぐ近くに文房具店を発見した。
その子を抱えるようにして入り、ダメ元で、お水をいただけないか尋ねてみた。
店主のおじいちゃんは不審な顔をしたが、調子の悪そうな彼女を見るや、すぐさま涼しいところで休ませてくれた。へたり込んでしまった彼女に、冷たいお水も分けてくれた。助かった。
彼女が回復するのを待つ間、ガラス扉の外を行き交う人々をぼーっと眺めた。
後をついて回る影がくっきりとしていて、いかにも暑そうだった。
あんなところを歩いていたのか。またあんなところを歩かなきゃいけないのか。
街路樹もほとんどなく、逃げ場となるような日陰が見当たらない。
京都っていうところはやけに暑いところだと思った。
帽子の一つでももってくれば、と後悔した。
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午後、女子ふたりが、四条あたりで買い物がしたいと言い出した。
この暑さだ、これ以上ほっつき回るのは無理だと思ったのかもしれない。
男子のうちひとり(もちろん、片思い中の彼)も、買い物に付き合うと言った。
わたしはせっかくだし、もう少し観光がしたかった。マイナーなお寺にも足を伸ばしたかったのだ。
別行動しようかどうしようか迷っていると、もうひとりの男子が、「僕も一緒に行くよ」と言ってくれた。「買い物、興味ないし」
「いいの?」
「うん」
きっと彼は本心から買い物に興味がなかったのだろうが、わたしにとっては、すごくありがたい助け舟だった。
「ありがとう!東寺に行きたいんだけど、いい?日本史の先生がおすすめしてくれて」
「うん、いいよ」
「東寺、知ってる?」
「ううん」
「え、ほんとにいいの?」
「うん」
「他に行きたいとこは?」
「特にない」
彼は、そういう人だった。
自分がこれをしたい!というようなことを、あまり表明しない。
引っ張り回すようで悪いな、と思ったけど、本当に嫌なら嫌だと言うだろう。
別に気にしなさそうだったので、わたしたちだけ京都駅の南側へ移動することになった。
その日は、夕方になってもまだまだ暑かった。
そのせいか、東寺はほとんど人がいなかった。敷き詰められた小石が、吸収した熱を増幅して返しているようだった。ハスの花が咲いていたが、池の水すら茹っているんじゃないかと思った。
「暑いね」
ぽつりとつぶやくと、彼がとつぜん立ち止まってカバンをごそごそとし始めた。
どうしたんだろうと見ていると、取り出したのは黒い折り畳み傘。
れっきとした、雨傘。
「これ」
「え?」
「これ、使ったら、多少ましかも」
「……」
雨傘なんだけど、とは言い出せなかった。ちょっと戸惑いつつ、「ありがとう」と受け取った。本当に、どこにでもあるような、ただの折り畳み傘である。こんな晴れている時に恥ずかしいなと思いながら、そっと広げてみた。やっぱり炎天下にはそぐわない気がする。
だけど、頭の上に掲げると、しっかり陰ができた。
じゅわじゅわと熱せられた頭皮から、熱が逃げていく感じ。
いいかも。
「ましになった」とお礼を言うと、「うん」とだけ返された。
熱い砂利の上を、ぽつぽつと歩く。
優しいな。
自分は暑くないのかな。
一緒に使おうって言った方がいいかな。
そんなことを考えていたら、顔がポッと火照ったのが分かった。せっかく傘をさしたのに、どんどん熱が集まってくるようだった。
彼は相変わらず、飄々とした顔つきをしている。
その動じない顔つきがなんだか憎たらしくて、
『ふつう、雨傘なんてダサすぎるから』
と心の中で文句を言った。また倒れられたら迷惑だと思っての行動だったかもしれない。でも彼の不器用な優しさを感じて、そういうのがどうしようもなくいいなと思った。
その日二人で見た東寺の塔は、壮大だった。
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黒い折り畳み傘を見ると、口数が少なくて、でも実はすごく優しかった彼のことを思い出す。
晴れた日に、雨傘を差し出すような、かっこつかない人だったけど。
そもそも、かっこつけようとしない人で。
それなのに、その年の文化祭でダンスを踊らされているのを見て、意外にもかっこよくてびっくりしたっけ。これは大変だ、他の女にも見つかってしまうと思って焦ったのが懐かしい。
雨傘と、初彼。
ちょっと甘酸っぱい、夏の思い出。