続・ほのぼの日記

いらっしゃいませ!ほのぼのしてもらえるようなエピソード、あり〼

MISIAと奈良の大仏

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大仏の前で歌うMISIA(「音楽の日」)

 

気がついたらテレビの前で涙を流していた。

歌手のMISIAさんが、奈良の大仏を背に熱唱する姿は、神々しいという言葉では足りないくらい圧倒的だった。

 

 

MISIAさんが歌ったのは、「逢いたくていま」「さよならも言わないままで」「明日へ」の3曲。どれもフルで歌ったが、あっという間の時間だった。

今回のテーマは「祈り」だという。

世界中の人々が、隔離されて家族にも会えないまま、あるいは適切な医療が受けられないまま亡くなっていくこの状況。日に日に増えていく犠牲者。どうか、この状況が一刻もはやく収まりますように。そんな深い祈りが込められたセットリストだった。

 

 

そもそも奈良の大仏は、聖武天皇が疫病や飢饉、災害などに見舞われる時代にあって、祈りを捧げるために建立させたもの。

MISIAさんが歌う場所としては、この上ない場所。

やっぱり、その場限りのセットとは重みが違う。

 

 

大仏殿がライトアップされると、陰影がくっきりして、組まれた木材の一本一本が目立つ。屋根や柱の部分に幾重にも装飾が施されているように見える。立派な木材が使われているのだろう、扉部分の木肌も美しい。

その中央に、緑の衣をまとい、空まで届けとばかりに歌いあげるMISIAさん。仏教チックなオレンジの刺繍が映える。

バックには、うっすらとほほえむ盧舎那仏さま。

絵面の力強さに、思わずため息が出てしまう。

いや、かっこよすぎでしょ。

 

 

奇しくも今日は、京アニの放火事件から1年。

そして、俳優の三浦春馬さんが突然亡くなった日。

本来は新型コロナウイルスの犠牲者に捧げられたライブだが、どうしても他の出来事も思い浮かべてしまう。

 

 

一曲目の「逢いたくていま」。悲鳴にも似た歌声に、しょっぱなから泣かされる。

「ねえ逢いたい」

「逢いたい」

逢いたいというシンプルな言葉の繰り返しに、すべての思いが込められているように感じる。逢えさえすれば。逢えさえすればいろんなことができるのに。2番の「運命を変えられなくても伝えたいことがある」という歌詞も切ない。おなじ結末を迎えるなら、せめてその結末を迎えることを先に知っていたかった。もう2度と会えないと知っていたら、ありがとうとさよならをちゃんと言うのに。

2009年に発売された曲らしいけど、このために作られたのか?というしっくりきた(ちなみに新型コロナの影響で作られたのは、2曲めの「さよならも言わないままで」。こちらもとてもよかった)

なんども聴いたはずの歌なのに、思い描くできごとが変わると、味わいも変わる。

 

 

死ぬべきでない人たちが、志半ばで命を絶たれるのは本当に辛い。特に、三浦春馬さんは同い年ということもあって、ファンでもないのになんだか打ちのめされた。仕事も順調そうで、そりゃ悩みのひとつふたつはあるだろうが、夢に向かって生きていると思っていた。あんなに光の中を歩いているように見えるひとでも、はかり知れない苦しみがあったのだろう。それはもう、生きていられなくなるほどに。

 

 

どうしてその決断をしたのか、知りたい気持ちもある。同じ過ちを繰り返さないように、原因は追及されねばならない。

でも一方で、納得できる理由をさがして納得するのは、なんだか違う気もしている。

そんな簡単に分かってたまるか。人がひとり亡くなるというのは、よっぽどのことなんだから。

 

 

三浦春馬さんにせよ、京アニの方々にせよ、新型コロナに倒れた人々にせよ、たくさんの人が悲しんでいる。

MISIAさんの歌を聴いていたら、これ以上悲しい別れが増えないませんようにと、自然と祈りを捧げていた。

テレビの画面越しに、大仏様を拝ませてもらっているように感じた。

 

 

 

(そして気がついたら、ひっっさしぶりに絵筆を取ってしまった。 

あんまり上手にかけなくて悲しいけど、

MISIAさんの手と大仏様の手が同じ形をしていて、

MISIAさんが人々を救済する神のように見えたのを描きたかった)

 

 

 

雑巾も絞れない!?

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ある夜のこと。

ダンダンダンと、ドアを叩くものがいる。

「おい、ぽっかおる?」

ダンダンダン。

 

 

パソコンで作業をしていたわたしは、ゆっくり顔を上げた。こんなふうにのっけから急かすように叩くのはひとりしかいない。待たせると面倒だ。また変なことが起きたかなと思いながら、そっとドアを開けた。そこには予想通りの相手が立っていた。

「どうしたの?」

「ついに犯人がわかった!」

その子は興奮気味に、物騒な言葉を口にした。

「犯人?」

「ほら、最近の!洗面所の!」

「なんだっけ?」

わたしがピンとこないでいると、その子はだんだんイライラしてきたのか、声を低めて吐き捨てるように言った。

「だから、鏡の水滴事件!」

 

 

——ああ、あれか。

そう言われてやっとピンときた。

 

 

ここ数日、寮の共同洗面所では、不可解なことが起きていた。

鏡が一面上水滴におおわれて、顔もうまくみれないほどに曇っていたのだ。梅雨の季節でもない。というか、霜や結露といったレベルではない。とにかく、泥混じりの雨が横殴りに吹き付けられて、そのまま残ってしまったという具合なのだ。

 

 

1日目はわたしたちがきれいにぬぐっておいた。

2日目、さすがにおかしいぞと思いながら、またぬぐった。

そして今日。

ついにその理由がわかったというのだ。

 

 

「誰だったの?」

聞くと、目を輝かせて教えてくれた。

「1年の子。姫。目撃しちゃった」

「なにを?」

「姫、しばらく洗面所の掃除当番だったんよ!怪しいなと思ったから、掃除が終わった直後にもう一度洗面所行ってみたの。そしたら案の定、鏡がまた水滴でいっぱいになってた。あれは奴の仕業だわ」

なるほど、と思いながら、報告するときの楽しそうな様子を見てやれやれと思った。それはまさに、噂好きのおばちゃんさながらだったから(そんなことを指摘したら首を絞められそうだけど)。突き止められて相当嬉しいらしい。

ちなみに姫というのは、その子が勝手につけた悪意のあるあだ名だった。プリンセスではなく、日本古来の、いわゆる平安貴族的な姫に似ているという意味でつけたらしい。

 

 

 

「だから、ぽっか、姫の部屋に行って」

「……え?」

いきなり言われたことばに、反応が遅れた。

 

 

「だから、姫の部屋に行って、聞いてきて」

「なんでわたしが…」

「いや、ここはぽっかが言う方がうまくいくでしょ。当たりが柔らかいし。自治会メンバーだったし?」

「え〜、自分でいけばいいじゃん。なんて言えばいいの」

「なんでもいい、先輩としてガツンと!」

 

 

 

そうなのだ、その子は気が強いくせに、矢面に立つのは嫌いな子だった。根っからの妹体質とでも言えばいいのだろうか。そうしてわたしはその子に頼まれると、なぜかついつい引き受けてしまう。

今回もいつのまにか、なんだかよくわからないうちに後輩の部屋にガツンと言いにいくことになってしまった。わたしもついていくから大丈夫などと、丸め込まれて。あれ、なんで応援される方になっているんだ?まあどっちにしても、早いうちに解決しておいた方がいい問題だからいいか。そんな風に納得しながら。

 

 

 

後輩は、鏡のことを指摘されると、ムッとした顔になった。

 

「あの、今の洗面所掃除って〇〇さんだよね?」

「そうですけど」

「鏡がちゃんとふけてないんだけど、知ってる?」

「いえ、ちゃんと掃除してます」

「ありがとう。いや、でも鏡がまだ汚れてるんだけど…」

「掃除しました」

「うん、でも鏡が」

「ちゃんと紙に書かれてある通りにやりました」

 

事情を尋ねようとしても、ちゃんと掃除をしたの一点張り。誹謗中傷は許さないといった固い決意が見られる。どうしたもんかなと困っていると、後ろに控えている彼女がイライラしてきたのが伝わってくる。ここで話していても埒が明かない。そこでいったん後輩にも洗面所にきてもらい、一緒に確認することになった。

 

 

洗面所の鏡は、やっぱり今日も一面の水滴。

その様子を見せながら、「ほら、こうやって汚れているでしょう?」と諭すように言った。これで納得するかと思いきや、ところがどっこい、彼女はまだ固い顔をしている。でも掃除はちゃんとしました、と繰り返してばかりいる。

どうやら彼女の言い分としては、掃除はちゃんとした、鏡も指示通りにふいた、なにも責められる謂れはないということ。先輩二人に、いちゃもんをつけられるのは心外だということ。気持ちはわからないでもない、ここで掃除ができていないと判断されれば、ペナルティとしてさらに掃除当番の日数が伸びる。それなりに時間も取られる、できれば避けたい事態だろう。

 

だけど、綺麗になっていないのは事実である。

う〜ん……。どうしたものか。

 

「分かった、じゃあ、もう一度どういうふうに掃除してたか見せてくれる?鏡をふくだけでいいから。もう一回、最初から鏡を拭いてみせてくれる?」

そう頼むと、後輩は渋々ながらうなづいた。

後輩が掃除しているところを、先輩二人でじーっと観察した。さぞやりづらかったに違いない。しかし、それでやっと問題の所在がわかった。

 

 

彼女、雑巾が絞れていなかった。

 

 

思わず、「「待って待って待って!」」とふたりで止めてしまったほど。雑巾を水で濡らし、両手に持った、ところまではいい。そのあと、気づくか気づかないかのレベルでほんの少しだけねじり、水がぼたぼた垂れたまま鏡にあてがったのだ。一瞬目を閉じてしまって、絞る工程を見逃したかと思った。だけど、彼女の手に持った雑巾からは水がぼたぼた垂れ続けている。

「え、絞った?」

「はい、絞りましたけど?」

後輩は、心底不思議そうな顔をしている。

「水、垂れてるけど?」

わたしの後についてきた彼女が、まっとうな指摘をした。

「……」

「……」

なんとなく気まずい沈黙が漂った。響くのは、雑巾からしたたり落ちる水の音。たしかに、床にも水滴の跡がついているのが不思議だった。それはこういう理由だったらしい。

 

 

 

「……雑巾の絞り方、教えてあげようか?」

「はい、お願いします」

 

 

 

結局、問題は掃除をしていなかったことではなく、掃除の仕方——もっというなら、雑巾の絞り方を知らなかったことにあった。これまでの18年間、誰にも教わらなかったのかもしれない。あまりにも初歩的すぎて、ずっと見逃されてきたのだろうか。そういう状況があったとき、どう対処してきたのだろうか。

見本を見せながら、持ち方、力を入れる向き、絞り方…と丁寧に教えていった。それでもなかなかしっかり絞れない。その子はそもそも力を入れるということがわからなかったようだった。「もっと!もっともっと捻って!」と言っても、なかなか絞りきれなかった。それでも最初の水ボタボタ雑巾に比べたらずいぶんましになった。せっかくだから自分で絞った雑巾で、もう一度鏡をふかせた。

 

 

「あ、きれいになりました」

 

 

本人も違いがわかったらしい。

当然だ。

まだ水滴のスジがついており、完璧とは言い難いが、ちゃんと顔が映るようになった。

 

 

***

 

 

「やれやれだね」

「ほんとだよ」

その後、口の悪い友達とふたりで、事の顛末を笑いあった。しかし彼女も、後輩のことを悪く言うことはなかった。知らなかったのなら、知っていけばいい。その子が次の時にも水滴だらけの鏡で満足していたら、そのとき悪態をつけばいい。

常識だと思っていることって、意外と常識じゃないから。

 

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鏡、水滴でいっぱいだよね

 

***

 

おまけ。

 

 

寮では犯人探しがときどき行われる。

中には見つからないものもある。

たとえば、他人が焼いたケーキをつまみ食いした犯人。結局あれは誰だったんだろう……。お腹空いてたのかな……。

 

 

 

 

『千と千尋の神隠し』主題歌の意味とは

 

千と千尋の神隠し - 作品 - Yahoo!映画

 


千と千尋の神隠し』を映画館で見るのは、人生で4度目だった。

封切り当時に3回見て、20年の時をへて4回目。

「一生に一度は、映画館でジブリを」というキャッチフレーズに惹かれつつも、この作品はもう散々見たし別にいいかなーと思っていた。が、なんのなんの。映画館でどっぷりと物語の世界に浸かれば、当時とはまったく違った感情をいくつもいくつも見つけられた。そして、はじめて主題歌の意味がわかった(ような気がする)。

 

 

主題歌は、きっとみなさんもご存知。

木村弓さんの「いつも何度でも」

 

*「あなた」ってだれだろう

優れた作品というのは、人によってさまざまな解釈を許すものだ。

だから意味がわかったといっても、正しいかどうかはわからない。他の考察サイトを見て、答え合わせしたわけでもない。

だけど、昔からこの歌の意味がわからないわからないと思いつづけてきたのが、今回はじめて、自分なりにすっときた。

 

 出だしはこう。

呼んでいる 胸のどこか奥で

いつも心踊る 夢を見たい

かなしみは 数えきれないけれど

その向こうで きっとあなたに会える

 

https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=68051

 

木村弓さんのファルセット混じりの歌声に、なんとも胸をかきたてられる。

ここの「あなた」、この部分に最初からつまづく。かなしみの向こうで会えるあなたって誰だろう?なにやらとっても大事な存在だということはわかるんだけど。

千と千尋の物語に即していうなら、ハクということになるのだろう。千尋にとって、ハクは間違いなく大切な存在だ。しかし、ここでまたつまづく。「かなしみの向こうで会える」ということは、再会できる相手ということだ。千尋はもう2度と、あの川を渡って湯婆婆たちの世界にいくことはできないだろう。ふたりは決して再会できないはずだ。

——だとしたら、誰なんだろう。

 

 

当時のわたしには、そこまでが限界だった。だって、まだ11才だったもの。

無我夢中で今を生きていて、思い出の大切さなんて、わかる由もなかった。

 

 

今ならわかる。ハクはハクでも、自分の思い出の中に生きるハクのことなんだ。

大切な人に、会いに行けないなんてことはない。自分が忘れさえしなければ、いつでも、どんな場所にいても、大切な人には会いに行ける。 自分の胸のうちで、彼らは笑っている。たとえ2度と会えなくても、亡くなっていたとしても。

 

 

それを裏付けるかのように、この歌は次のように終わる。

海の彼方には もう探さない

輝くものは いつもここに

わたしのなかに 見つけられたから

大切なあなたは、海の彼方ではなく、わたしのなかにいた。 

だから悲しいときは、会いにゆけばいい。

 

 

*わたしにとっての「あなた」

人は生きていく中でいろんな別れを経験する。会えない人を思うたび、空や海の青さを実感する。この海を越えていけば、また会えるんじゃないかと叶わぬ夢を抱くこともあるだろう。

 

わたしも辛い別れを経験したことがある。

中学に上がってすぐ、大親友が海外に引っ越していってしまったのだ。ずっと一緒にいたのに、もうともに成長することができないなんて信じられなかった。海は、文字通り、わたしたちふたりを隔てているように感じた。

 

「いつも何度でも」を聞くと、なぜか彼女を思い出してしまい、「あなた」に彼女を重ねた。何を隠そう、はじめてもらい泣きした曲もこの歌である。

だからこそ、「海の彼方にはもう探さない」という、この歌の主人公の気持ちが全くわからなかった。あの子は、海の向こうに確実にいるのに。

 

 

彼女と一緒に過ごさない日常生活が始まって、新しい友達もたくさんできて、その友達との別れもまたたくさん経験した。もう別れで泣くことはなくなったけど、それはきっと彼女の存在が大きかったからだと思う。わたしには親友がいる、海の向こうで頑張っていると思うと、寂しさが和らいだからだ。

そのときまぶたに浮かんだ親友の姿は、幼い子どもの姿だった。

バカなことをするわたしに呆れている顔だったり、負けず嫌いを発揮してむくれている顔だったり、思い切り走り回って汗をかいている顔だったり。

そういう姿を思い出すと、わたしを呼ぶ声も聞こえるような気がした。

 

 

気づかなかったが、きっとそういうとき、わたしはあの子に会っていたんだと思う。

中学の人間関係に悩んだ時も、意味もなく将来に不安を感じた時も、なんども。

20年の時をへて、もういちどこの歌をしっかり聞いてみて、初めてそのことに気づいた。

 

 

親友との別れを経験した後も、大小様々の別れがあった。もう一生会わないだろうなという人もたくさんいる。みんな、その当時の自分にとっては大切な相手で、かけがえのない時間を共有した人たちばかりだ。

そんな人たちが、思い出のなかでいつも笑っていてくれると思えば、なんとも心強いではないか!いつでも、会いに行けるなんて。

 

 

*「忘れてはいないさ、思い出せないだけで」

もし、忘れてしまったらどうなるんだろう。

大切なことを忘れたくなくて、こうしてブログを初めてみたけれど、思い出は砂のようにさらさらとこぼれていく。

 

そんな不安に対して、作品中で銭婆婆が千尋に言ったセリフがよい。

千尋はハクの正体がわからなくて、銭婆婆に相談する。昔どこかで会ったことがあるはずなのに、思い出せない。どうしよう、と。すると銭婆婆は、

 

「忘れてはいないさ、思い出せないだけで」

 

と言って励ましてくれる。結局千尋は竜の姿になったハクに乗ったときにすべてを思い出すのだが、この言葉が作品を見終わった後もここちよい余韻として響く。

 

 

幼少期のことはもちろん、数年前の出来事だってどんどん忘れていってしまうように思うが、それは思い出せないにすぎない。なにかのきっかけで思い出すかもしれない。たとえ一生思い出さなくとも、あったことはなしにはならない。そう思うと、なんだか少し安心する。

 

 

やっぱり、千と千尋は「思い出讃歌」の物語なんじゃないかと思ったり。

 

 

*うまく走れなかった少女

千と千尋の神隠し』は2001年公開。千尋ちゃん、10才。わたし、11才。完全に同世代である。

今回大人の目線で千尋ちゃんを見て、自分たちの世代がどう見られていたかがよくわかって、胸が痛んだ。甘ったれで、無気力で、頼りない。走り方すらなってなくて、今にも転びそうになりながら走る。あの、両手をふらないひょこひょことした走り方、わたしもまさにああだった。

 

 

千尋ちゃんは油屋で大きく変わった。おどおどする癖は抜け、しっかりと人の目を見られるようになった。

わたしはせいぜい架空の少女に自分を重ねて追体験するだけだったけど、ちゃんと日常を生きて、ゆっくりと変化してきたと思う。

 

 

今回ジブリさんがすばらしい企画をしてくれたおかげで、映画館で、当時の自分にも再会できたような気がした。わくわくしながらお話に入り込んでいた、甘ったれでひょこひょこ走りのわたしに。

 

 

1日1捨てのすすめ

天気予報が外れていい天気。

おかげで久しぶりの洗濯ができました。

 

もともと洗濯って好きな方の家事だったのに、夫が嫌うからなんとなく自分も面倒に感じるようになった。よくない影響。

でも晴れた日に、洗濯物が揺れるのを見るのはきもちがいい。

白いTシャツに青空が透けてる。こりゃ、あっというまに乾くな。

 

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去年の夏、神戸にふく風

 

 

最近はまっていることがある。

それは、「1日1捨て」という新習慣。

文字通り、毎日なんでもいいからひとつだけ捨てる。

たとえば、壊れたドライヤー。使い切った電池、段ボール箱、複数枚あるエプロン、趣味じゃないコースター。

 

 

コンビニで立ち読みした雑誌に書いてあって、これはいいと取り入れて2週間。無理のないペースで不要なものが片付けられていく。

「今日は何を捨てようかな?」と1日考えていれば、なにかしら見つかる。

もし2つ以上見つかってしまったときは、ぐっと我慢。一気に綺麗にしてしまいたいところだけど、どっちかひとつを選ぶ。

——こっちは明日捨てよう。

そうやってペースを乱さないことで、着実にものがへっていく。楽しい。

 

 

最近では、夫と「今日の捨て物なんにする?」と声を掛け合うようになった。

捨て物。

我が家で使われるようになった新しい言葉である。

 

 

言葉というのは、文化と密接につながっていて、一語で表されるものっていうのは、その文化にとって大事な概念だ。

たとえば最近だとソーシャルディスタンス

「人と人との距離を適切に保つこと」っていう複合表現じゃなくて、一つの言葉として、地位を確立してる。(※ソーシャル+ディスタンスという複合表現じゃないかと思ったあなた、鋭いです。でもここではイディオムも一語として考えたい)

 

 

我が家にとって、「捨て物」という新しい文化が生まれた。

 

 

夫にとって、洗濯以上に苦手だった片付けだけど、「捨て物」ならなんだか楽しそうにやっている。

よかったよかった。

私のストレスもなくなって、よかったよかった。

 

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ふたりとも好きなのは珈琲を入れること。これは争奪戦になる。

 

 

乙女たちのバスタイム

突然ですが、銭湯は好きですか。

シャワーしかないアパートに住んでいる人間にとっては、ひろい湯船に浸かれるというただ1点で、十分魅力的かもしれない。

京都に住んでいた頃はあちこちに銭湯があって、わたしもたまに利用していた。見ず知らずの人たちだが、誰かと一緒に入れるのがなんとなく楽しかった。

 

 

だがよく考えると、すごい。

人前で裸になるって勇気がいる。

われわれ日本人、街中では下着の線が見えることすら気にする民族だ。ブラの肩紐がはみ出さないかどうか、鏡で入念にチェックしたり。

だというのに、銭湯という空間ではその価値観が消えてなくなる。

「ゆ」と書かれたのれんをくぐって、番台さんにお金を払って、脱衣場に入ってしまえば、そこは異空間。外界とは異なるルールに支配される空間。スッポンポンのおばちゃんが、扇風機の前で涼んでいたりする。

そうとわかっていても、入っていきなり肌色が目に飛び込むと、ギョッとしてしまう。まだ半分街中の気分でいるからだろうか。

 

 

これ、ふしぎなことに、旅館の大浴場では感じない。

旅館の場合、門や渡り廊下など、コチラとアチラを分けるような仕掛けがちゃんとあるからだろうか、非日常の空間として線引きできる。

それに対して銭湯というのは、街中との境界線があいまいで、一応のれんで隔てられてはいるものの、なんの心構えもしないまますーっと入れてしまう。

すーっと入って、お、ハダカだ、とびっくりさせられる。

 

 

そういうふうに感じるの、わたしだけかなあ。

 

 

***

 

そんなことをつらつら考えつつ、大勢でお風呂に入るというのが日常だった頃を思い出す。銭湯が好きなのは、きっと誰かとお風呂に入った楽しい記憶があるからだ。

あの頃は、毎日寮生と一緒にお風呂に入っていた。うん、今から考えたら相当非日常。バスタイムなんて、ふつうならもっともプライベートに属する領域なのに。

 

 

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↑カバーイラストを作ってみた。実際はこんなにかわいい建物じゃなかったけど。



 

 

わたしたちが住んでいた寮、つばめ寮は、トイレも食事も洗濯もすべて共同だった。

もちろんお風呂も。

 

 

お風呂場には、3〜4人がゆったりと浸かれる湯船があった。お湯を張るのも寮生の仕事で、先に入った人がお湯を張らなければいけない。

このとき、温度設定なんてものはできないから、適当に蛇口をひねって調節しなければならない。古い家や安いアパートだとよくあるが、この方式、家を出たばかりの子は意外と知らないようでよくミスがあった。入寮してすぐの時期は、なにも気づかず、熱湯をなみなみと張ってしまう。

わたしと同じタイミングで入寮した子もこの失敗をおかした。運の悪いことに、先に体を洗い終えた先輩が「熱っ!!!!!!」と叫んだことで、そのミスに気づいた。その子は体に泡をつけたまま、「すみません!!!」とオロオロしていた。まだ先輩にビビっていた時期のできごとである。気を利かせて入れてあげたのに、かわいそうに。

 

 

他人とバスタイムを共有して気づいたことがある。それは、体の洗い方にも相当癖があるということ。

当時面白いなと思った人のことは今でも覚えている。

 

 

 

たとえば、髪の毛を洗い終わった後、水気を絞るときに毛先をぴょいっとひっくり返す子がいた。毎回、かならず。くるりん、ぴょいっ。

そうすると水鉄砲のように、水が飛ぶ。

あ、今日もいきおいよく飛んだな、と思う。

だからその子の右サイドで洗う人は要注意である。

 

 

 

もっと要注意なのが、顔の洗い方が独特な子。

彼女はとても姿勢がよく、お風呂用の椅子に腰掛けているときも背筋がぴんっと伸びていた。それはいいが、その姿勢のまま顔を洗うのが問題だった。洗面器から水をすくい、肘をばねのように動かして、水を勢いよく当てる。パシャっ。顔面に対して、垂直に。そう、まるでロボットのように。

あまりにも勢いよく当てるので、はたから見ていて、精神統一でもしているのかなと思うほどだった。

その子の場合は、両サイドが危険だった。

あの勢いで顔を洗うと、確実に水が飛んでくる。

 

顔に出やすいタイプの先輩からは、明らかに嫌がられていた。込み合う時間帯は、どうしても隣に座る必要があるからである。

しばらくして遠慮がちに洗うようなってしまったのは残念だった。垂直にパシャっと水をかけるの、面白かったのに。

 

 

しかし、ひときわ目立っていたのは、全身を石鹸で洗う人。

風呂場に私物はおいておけないので、毎度、各自が洗面器に必要なもの一式をそろえてもっていくのだが、彼女はいつも身軽だった。石鹸オンリー。

髪も、顔も、ぜんぶ石鹸で洗っていく。

そして湯船につかることもなく、ささっと出ていく。

潔い。

口の悪い友達は、彼女のことを「石鹸女」なんて呼んでいた。そう呼べば誰のことだかみんな分かってしまうというのが、寮の怖いところ。だが本人は、まわりから白い目で見られようと、ひそひそとうわさされようと、一向に気にするそぶりを見せなかった。

(長い黒髪は心持ちパサパサしていたが、そんなのは些細なことだったに違いない)

 

 

 

世の中にはいろんは洗い方がある。十人十色。

銭湯では許されないだろうが、寮ではこっそりじっくり観察ができた。

 

 

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パシャッ(垂直)

 

 

***

 

 

ある寒い冬のこと。

その日は、つばめ寮祭というイベントがあって、わたしは自治会の一員として運営やら片付けやらで1日忙しくしていた。ちょっとしたお偉いさんや男子寮の寮生も呼んで、飲めや食えやの大騒ぎ。ゲストの方々をお見送りして、やっと片付けが終わったのはもう日付が変わる頃だった。

 

ふだんならもうお風呂には入れない時間だった。近隣住民のことを考えて、23時になったら自動でボイラーがとまるようになっていた。

 

しかしその晩は寮のために働いたということで、自治会メンバーは特別にお風呂に入ることを許された。寮長さんから、「さっさと入ってこい!今ならまだあったかいぞ!」とけしかけられながら。

祭りの後だ、みんなお酒も入っていて、だいぶ陽気だった。

「はーい!」「やったーっ」「ありがとうございまーす!」

いい返事をして、ギャーギャー騒ぎながら風呂場に向かった。

 

 

地下の風呂場へと続く階段は冷え切っていた。脱衣場にも暖房はない。

夜が更けて、一段と気温が下がったような気がした。東京にも雪が降るんじゃないかと思った。

「寒い寒い!」

「はやく入ろう」

みんなぽいぽいっと服を脱ぐと、浴室になだれ込んだ。他の寮生がさっきまで使っていたからだろう、まだ浴室はあたたかくて、白い湯気が充満していた。

 

 

 

「やったー、まだあったかい!」

シャワーから出るお湯はあたたかくて、一同ほっとした。今日の疲れを洗い流そう。

 

 

 

しかし、その幸せは長くは続かなかった。

23時になったら自動でボイラーが止まる。

無情にも、その設定は変更されていなかったのだ。

 

 

誰が一番先に気づいたのかは覚えていないが、とにかく誰かが声をあげた。

「やばい、シャワーの温度が下がってきた!」

言われてみれば確かにさっきより温度が低い気がする。いやな予感がした。まだ髪の毛に泡がたくさんついているというのに、このまま水になってしまったら……。

「あ、こっちのも冷たくなってきた」

「もしかしてボイラー止まってる?」

「まじ!?」

最悪な事態に気づき、みんなが大慌てになった。とにかく少しでも温度を感じられるうちに洗い流してしまわないといけない。貴重なお湯は、一秒ごとに、大量に、失われている。シャワーの設定温度を60℃まであげても、どんどん温かみが感じられなくなってきた。

「さむーい!!!!」

「冷たい!!!」

喚いてものろっても、悲しいかな、最終的には完全に水になった。真冬の夜に冷たい水をあびる。こんなの修行に他ならない。1日頑張った体に、冷たい水が染み入る。ボイラーよりもうるさい乙女たちの叫びが響き渡った。

 

 

もし、これで湯船がなかったら、自治会メンバーそろって風邪をひいているところだった。

幸いなことに、他の寮生が湯を張ってくれていて、栓が抜かれないまま、まだ湯船にたっぷり湛えられていた。みんな湯船に浸かることだけを楽しみになんとか修行を終え、ひとり、またひとりと湯船に飛び込んだ。

「「「「あったか〜〜い!!!」」」」

冷たい水に打たれた後のあたたかなお湯は、この世のものとは思えない気持ち良さだった。芯まで冷えた体がほどけていくようだった。

数人しか入れない湯船に、なんと同時に九人も入った。ぎゅうぎゅうに入っているのが自分たちでもなんだか面白くなって、大声で笑った。九人の笑い声が天井や壁にこだました。

 

 

「なあ、これ記念に写真撮らん?」

誰かが言い出して、みんながいいね、いいねと賛同した。こんな楽しい瞬間、このまま記憶の海へと流し去ってしまうのはもったいない。

後輩を呼び出して、カメラマンをお願いした。後輩はカメラを受け取った後、何か言いたそうな顔をした。ファインダーを覗きながら、何度も「本当にいいんですか?これ、撮るんですか?」と確かめてきた。

そりゃそうだ、ふつうに考えて、風呂場である。流出したら大問題の写真になる。

それでも妙な連帯感と高揚感に、今ここで撮らなくてはいけない気がしていた。大丈夫大丈夫と押し切ると、後輩はやっと頷いてくれた。

「じゃあいきますよー、はい、チーズ!」

 

 

肌色の肉肉しい写真が撮れた。

その写真を見て、また大笑い。

後輩はまだ困ったような顔をしていたが、わたしたちは大満足だった。冷え込んだ夜の街にも、わたしたちの笑い声が漏れていたに違いない。

 

 

 

それに、それはある意味流出しても平気な写真だった。狭い湯船に大勢で浸かったおかげで、大事なところはしっかり隠れていたのだ。

みんなの赤く上気した顔だけが、もくもくとした湯気の中にうかんでいた。

 

 

***

 

あのときの写真は、携帯電話をかえるタイミングで無くしてしまった。でもそれでよかったのかもしれない。あまりにも肉肉しい写真だったもの。

それでも、シャッターを切った瞬間に、ちゃんと心の中に焼きついた。

 

 

 

みんなでお風呂に入ることが日常だったなんて、今のわたしからすると、ほんとうに非日常。文字通り、裸の付き合いだった。

たまに大勢でお風呂に入る楽しさを求めて銭湯に行ってしまう。

だけどやっぱり銭湯には他人しかいなくて、全然別物だと気づく。

 

 

冬至の日には寮母さんが気を利かせてくれて、柚子がごろごろ浮かんでいたっけ。

わたしたちにとっては半分ボールみたいなものだったけど。

——今度は柚子風呂、再現してみようかな。

 

 

 

 

 

 ↓トイレや洗濯室が共同だったことについてのアレコレ

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女がみそじになるとは

楽しみにしていた、クチナシの花が咲いた。

いい香り。ぐんぐん夏に向かっていく。

使い古されてボロボロになった言葉だけどそれでも使いたい。

光陰、ほんとに矢の如し。

 

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知ってますか。

恐ろしいけど、女は誰でも自分がシンデレラや白雪姫だと思って童話を読む。

だけど実は、継母も同じ女の未来なの。気づいた時にはそっち側。

ジェンダー論の若桑みどりさんが言ってた。 

 

わたしも気づけば来月でみそじ。

昔なら、そろそろ継母サイドへ移行するころ。

 

 

目次

ということで、今日は「みそじになる」をテーマに、書いてみたい。(はじめて目次機能というものを使ってみる) 

 

 

0. 自分をみつめる

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ハタチ前後の男の子と話していて、かわいいと思った。

蚊に刺されが、なかなか消えなくなった。

集中できる時間が、前よりも短くなった。

まわりからの視線が、気にならなくなった。

 

 

人が歳をとったことに気づく瞬間って、どんなときだろうか。

平成生まれのわたしも、もうすぐ30歳。

容赦なくめくられるカレンダーに、恐れおののく気持ちもある(わお、このままじゃあっという間に死ぬぞ)。だからこそ、みそじになるってどういうことなのか、ここ数年、自分のこころとからだを見つめてきたつもりだ。

 

 

去年の今と今年の今、感じ方に違いはないだろうか。

眠る前の自分と起きた後の自分、そこに断絶はないだろうか。

ちっちゃな変化を察知したくて、ここ数年で、詩も書きためている。どこにも発表する気は無い詩集のタイトル、その名も「みそじになる」。ふふ。

 

 

 

ところが当方、見た目のせいかそれとも言動のせいか、いまだに学生に間違われる。

電車で本を読んでいて隣の席のおばあちゃんに「学生さん?」と聞かれる。Zoomの会によばれてはじめましての方から「学生さん?」と聞かれる。仕事用の服を買おうとしていて、美人な店員さんに「学生さん?」と聞かれる。

全部今年に入ってからの出来事。それでも、もうすぐ30歳。

身に纏う空気はいつまでたっても学生かもしれないけど。

なんなんだろうな、自分では、大なり小なりいろんな変化を感じてるというのに。

 せっかくの機会なので、感じた変化のいくつかをまとめてみたいと思う。

 

 

1. カラダの変化 

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  • お肌
    体の変化でまず感じるのは、肌の元気が無くなったこと。当たり前すぎる?毎朝鏡とにらめっこするせいか、これはもう本当に痛感する!このまえなんて、目尻にシミを発見してしまった。笑った時の小じわもいっぱい。おお、これがオバチャンになることか!なんてやけに感心してしまう。
    といって何もしないでいるわけにいかないので、ネットでエイジングケアに関する情報をあつめている。とりあえず基本ケアにあわせて、ビタミンC(APSやAPPS)を補うようにしたけども、効果があるんだろうか。うーん。

 

  • 体重
    体重、ついに増えました。2kgも!!!!
    大して変わらんやんけと思うかもしれないけども、ローティーンからずっと同じ体重だったので、自分としては動かざる石がついに動いた!という気分。このままじわじわと増え続けるのか、また均衡状態になるのか、いまは見守っているところ。スタイルの良い美魔女は目指すところにないので、できれば今よりもうちょいぽちゃって、健康的なオバチャンになりたい。

  • 生理の周期
    遅くなりました。これは女性ホルモンの関係なんだろうか。28日で安定していたのに、最近は10日ほど増えた。いずれ子どもがほしいけど、大丈夫かな。どれだけ社会が変わっても、生物としてのヒトの生体は変わらないので、そのあたり少し心配。
    そうそう、ヒトという生物が子どもを2人しか産まなくなったのはここ100年(もっと短い?)のことで、いま経済レベルが低い国の女性も、今世紀中には平均して2人しか産まなくなるそう。これは、人類の長い歴史の中で、とっっっっても大きな変化。この変化が進化的にどんな影響を与えていくのか気になるなあ。とりあえず今の女性は、昔の女性に比べてはるかに生理期間が長い。妊娠期間がめちゃくちゃ減ったから当たり前なんだけど、体には負担みたい。

 

2. こころの変化

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  • 集中力が続かなくなった
    昔はもっとガッツがあったような気がする。 これはわたしとしては由々しき事態。こんな心もとない状態で、30代の荒波をのりこえていけるんだろうか。まだまだ足りないところだらけなのに。

  • 他人の目が気にならなくなった
    オバチャンってすごいと思うことのひとつが、自分がどう思われているか気にしないたくましさ、別の言葉で言うと、図々しさ。
    うちのお母さんもすごい。一緒にメルボルンを旅行した時、団体ツアーに参加していたら、英語しか喋れない相手とふつうに会話していた。”Wow, those paintings on the faces are fantastic!”とかいうイギリス人に、「ねえ、ほんときれい〜」と相槌を打っていた。ちゃんと会話として成立しているから笑ってしまった。他にも、電車内で音楽を聞いている女性に、"Pardon?"と話しかけたり。それって聞き返すときによく使われる表現じゃなかったっけ、あれ?と戸惑っているうちに、必要な情報をゲットしていてさすがと思った。オバチャン、すごい。
    まだまだこの域には達していないが、わたしも昔よりは図々しさを身につけた気がする。バスの支払いでもたついても、焦ったりしなくなった。

  • かわいいと言われても嬉しくなくなった
    もちろん夫に言われるのは嬉しい。でも、他の異性から言われると困るし、自分はまだそのレベルか……とむしろがっかりするようになった。若いという特権は十分味わい尽くしたので、次はそれ抜きで勝負したいのに、実力がないから外見でほめられる感じ。学生に見られている以上仕方ないのかもしれないけど、自分の能力の無さに落ち込んだりする。

 

3. 本当に変わったのは

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こうしてこころとカラダの変化をいくつか書いてみたけれど、最近いちばん実感するのは、習慣の変化。たとえばお酒をやめてスパークリングウォーターを飲むようになったとか、新聞を読むようになったとか、姿勢に気をつけるようになったとか、そういう小さなこと。

 

習慣の力。

 

って、あなどれない。だからこそ、休日にいつまでも寝ている自分が死ぬほど情けないし、すぐ昼寝しようとする自分がいやだし、今日は頑張ったからって言って夕ごはんの後すぐにベッドに向かおうとする自分が恥ずかしい。(これは、夫の影響。悪影響。)

習慣の力は偉大だから、悪い方にもかんたんに傾いていく。

日々を大事に生きないと。

 

 

こころやカラダを直接変えることはできないけど、習慣はいつでも変えられる。

そう思えば、歳をとるのも怖くないし、むしろ楽しみにならないかな。

なんというか、主体的に生きられるというか。

ここに書ききれなかったことも含め、自分に起きたさまざまな変化を見つめてみて、そんなふうに感じるようになった。

 

 

「人間に自由意志はあるのか?」と問われると、あるともないとも言える。人間も自然法則にしたがって増えたり減ったりする細胞のあつまりにすぎないと思えば、自由意志なんてないようにも思える。我々は、老化にむかってひたすらエントロピーが増大する細胞の集合体にすぎないのだ、なんて。

 

だけど、直感的に考えて、自由意志にしたがって行動しているように思える。

少なくとも自分の意志で、変化の方向づけくらいはできそう。もちろんいいほうに。

そうあれと願う20代さいごの1ヶ月。

 

 

 

誕生日を迎えるまで、暑さにも湿気にも負けるもんか!がんばるぞ!

 

 

みなさんの感じる変化についても知りたいなあ。 

 

 

 

 

 

 

 

雨傘と、初彼。

今週のお題「傘」

 

 

雲ひとつない夏の日、路上で、黒い雨傘を差し出してきた人がいた。

当時、お互い17歳。のちの、初めての彼氏だった。

 

 

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「傘」というと、雨の日を思い浮かべる人が多いだろう。

この季節だ、雨にうたれる紫陽花や、雨にけぶる水田。そんなものが脳裏に浮かんだりするんじゃないだろうか。

家の中で、ずっと振り続けている雨音を聞いていると、そういう美しい風景を見たくなる。

 

 

だけどわたしの場合、「傘にまつわる思い出」ということばを聞いてまっさきに浮かんだのは、暑い暑い夏の日だった。

 

 

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高校2年生の夏休み。

受験を翌年に控えて、わたしたちは京都にきていた。

大学のオープンキャンパスに参加するため、というのが名目である。

 

 

担任は、今のうちにいろんな大学を見ておけと言った。

オープンキャンパスに行けば、学生の様子も分かるし、大学の雰囲気をつかめるぞと。

だが、実際に赴いて志望校を決める高校生はどれくらいいるだろうか。少なくとも、地方の片田舎に住んでいたわたしの周りでは、そんな発想のない子がほとんどだったように思う。

 

 

しかしよいチャンスである。なんのか。

大手を振って外泊するということの。

高校生にとっては、親抜きでの旅行はまだまだハードルが高かったから。

 

 

 

担任の言葉に「これは!」と思ったわたしは、さっそく親に掛け合った。夏休みに京都に行かせてほしい。大学を見てくるから、仲良し3人組で出かけてもよいか。ついでに2泊ほどしてきてよいか。

すると、

「女の子だけで行くのは危ない。男子も連れていきなさい。それなら許す」

というのが、答えだった。

 

 

ふつう高校生ともなれば、男女で旅行に行くほうがヨロシクないんじゃないか。

「何かある」という心配はないのか。

そう思ったが、都会のストレンジャーより、身近な男子のほうがよっぽど信頼できるというのが親心なのかもしれない。

 

 

それならばと、わたしは同級生の男子2人に声をかけた。

ひとりは、本当にその大学を目指している人。もうひとりは、その人と仲が良く、かつわたしの友達に思いを寄せている人。おせっかいかもしれないが、旅先で距離が縮まればという狙いもあった。

ふたりとも、二つ返事で快諾してくれた。

 

 

そんなこんなで、男女5人で京都にやってきた。

もちろん、オープンキャンパスもしっかり参加した。理系文系のまじった5人組だったので、みんなで回れるように、いわゆる教養学部的なところを選んで。まあ、完全なる冷やかしである。実を言うとわたしはほんの少しだけその学部に興味があったのだが、他のひとからすれば、受ける予定がまっったく無いところを見物させられたようなものだ。

 

よくついてきてくれたと思う。特に男子たち。

ひとりは好きな子が一緒だからという理由があるが、もうひとりにいたっては、そもそもオープンキャンパスというものに価値を感じていないようだったのに(なんでも、どうせ受けるから別に見なくてもいい、という態度だった)。

 

 

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オープンキャンパスに参加した翌日は、朝から蝉の声が降り注ぐ、真夏日だった。

わたしたちは、京都観光といったらコレというような、おきまりのルートを回った。

市バスの206号系統を利用して、祇園から八坂神社、清水寺へ。たぶん今よりは京都の国際的な知名度も低かったのだろう、海外の観光客は今ほど多くはなかった。が、それでも人で溢れかえっていた。

 

お昼どきだったろうか、途中、友達のひとりが軽い脱水症状を起こしてしまった。もう少し常識があれば、ちゃんと水分を持って、時々喉を潤しながらうろついただろう。いかんせんまだ17歳、そのあたり、わたしたちはまだまだお子ちゃまだった。

その子がいきなり、

「もう歩けない」

と立ち止まるもんだから、一同あわててしまった。見回しても、自動販売機もコンビニもドラッグストアもない。人がわたしたちをどんどん追い越していく。

とりあえずすぐ近くに文房具店を発見した。

その子を抱えるようにして入り、ダメ元で、お水をいただけないか尋ねてみた。

店主のおじいちゃんは不審な顔をしたが、調子の悪そうな彼女を見るや、すぐさま涼しいところで休ませてくれた。へたり込んでしまった彼女に、冷たいお水も分けてくれた。助かった。

 

 

 

彼女が回復するのを待つ間、ガラス扉の外を行き交う人々をぼーっと眺めた。

後をついて回る影がくっきりとしていて、いかにも暑そうだった。

あんなところを歩いていたのか。またあんなところを歩かなきゃいけないのか。

街路樹もほとんどなく、逃げ場となるような日陰が見当たらない。

京都っていうところはやけに暑いところだと思った。

 

 

帽子の一つでももってくれば、と後悔した。

 

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午後、女子ふたりが、四条あたりで買い物がしたいと言い出した。

この暑さだ、これ以上ほっつき回るのは無理だと思ったのかもしれない。

男子のうちひとり(もちろん、片思い中の彼)も、買い物に付き合うと言った。

 

 

わたしはせっかくだし、もう少し観光がしたかった。マイナーなお寺にも足を伸ばしたかったのだ。

別行動しようかどうしようか迷っていると、もうひとりの男子が、「僕も一緒に行くよ」と言ってくれた。「買い物、興味ないし」

「いいの?」

「うん」

きっと彼は本心から買い物に興味がなかったのだろうが、わたしにとっては、すごくありがたい助け舟だった。

「ありがとう!東寺に行きたいんだけど、いい?日本史の先生がおすすめしてくれて」

「うん、いいよ」

「東寺、知ってる?」

「ううん」

「え、ほんとにいいの?」

「うん」

「他に行きたいとこは?」

「特にない」

 

 

彼は、そういう人だった。

自分がこれをしたい!というようなことを、あまり表明しない。

引っ張り回すようで悪いな、と思ったけど、本当に嫌なら嫌だと言うだろう。

別に気にしなさそうだったので、わたしたちだけ京都駅の南側へ移動することになった。

 

 

その日は、夕方になってもまだまだ暑かった。

そのせいか、東寺はほとんど人がいなかった。敷き詰められた小石が、吸収した熱を増幅して返しているようだった。ハスの花が咲いていたが、池の水すら茹っているんじゃないかと思った。

 

 

「暑いね」

 

 

 

ぽつりとつぶやくと、彼がとつぜん立ち止まってカバンをごそごそとし始めた。

どうしたんだろうと見ていると、取り出したのは黒い折り畳み傘。

れっきとした、雨傘。

 

 

「これ」

 

 

 

「え?」

「これ、使ったら、多少ましかも」

「……」

 

雨傘なんだけど、とは言い出せなかった。ちょっと戸惑いつつ、「ありがとう」と受け取った。本当に、どこにでもあるような、ただの折り畳み傘である。こんな晴れている時に恥ずかしいなと思いながら、そっと広げてみた。やっぱり炎天下にはそぐわない気がする。

だけど、頭の上に掲げると、しっかり陰ができた。

じゅわじゅわと熱せられた頭皮から、熱が逃げていく感じ。

 

 

いいかも。

「ましになった」とお礼を言うと、「うん」とだけ返された。

熱い砂利の上を、ぽつぽつと歩く。

 

 

優しいな。

自分は暑くないのかな。

一緒に使おうって言った方がいいかな。

 

 

そんなことを考えていたら、顔がポッと火照ったのが分かった。せっかく傘をさしたのに、どんどん熱が集まってくるようだった。

彼は相変わらず、飄々とした顔つきをしている。

その動じない顔つきがなんだか憎たらしくて、

『ふつう、雨傘なんてダサすぎるから』

と心の中で文句を言った。また倒れられたら迷惑だと思っての行動だったかもしれない。でも彼の不器用な優しさを感じて、そういうのがどうしようもなくいいなと思った。

 

 

 その日二人で見た東寺の塔は、壮大だった。

 

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黒い折り畳み傘を見ると、口数が少なくて、でも実はすごく優しかった彼のことを思い出す。

晴れた日に、雨傘を差し出すような、かっこつかない人だったけど。

そもそも、かっこつけようとしない人で。

 

 

それなのに、その年の文化祭でダンスを踊らされているのを見て、意外にもかっこよくてびっくりしたっけ。これは大変だ、他の女にも見つかってしまうと思って焦ったのが懐かしい。

 

 

 

 

雨傘と、初彼。

ちょっと甘酸っぱい、夏の思い出。