『千と千尋の神隠し』主題歌の意味とは
『千と千尋の神隠し』を映画館で見るのは、人生で4度目だった。
封切り当時に3回見て、20年の時をへて4回目。
「一生に一度は、映画館でジブリを」というキャッチフレーズに惹かれつつも、この作品はもう散々見たし別にいいかなーと思っていた。が、なんのなんの。映画館でどっぷりと物語の世界に浸かれば、当時とはまったく違った感情をいくつもいくつも見つけられた。そして、はじめて主題歌の意味がわかった(ような気がする)。
主題歌は、きっとみなさんもご存知。
木村弓さんの「いつも何度でも」
*「あなた」ってだれだろう
優れた作品というのは、人によってさまざまな解釈を許すものだ。
だから意味がわかったといっても、正しいかどうかはわからない。他の考察サイトを見て、答え合わせしたわけでもない。
だけど、昔からこの歌の意味がわからないわからないと思いつづけてきたのが、今回はじめて、自分なりにすっときた。
出だしはこう。
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい
かなしみは 数えきれないけれど
その向こうで きっとあなたに会える
木村弓さんのファルセット混じりの歌声に、なんとも胸をかきたてられる。
ここの「あなた」、この部分に最初からつまづく。かなしみの向こうで会えるあなたって誰だろう?なにやらとっても大事な存在だということはわかるんだけど。
千と千尋の物語に即していうなら、ハクということになるのだろう。千尋にとって、ハクは間違いなく大切な存在だ。しかし、ここでまたつまづく。「かなしみの向こうで会える」ということは、再会できる相手ということだ。千尋はもう2度と、あの川を渡って湯婆婆たちの世界にいくことはできないだろう。ふたりは決して再会できないはずだ。
——だとしたら、誰なんだろう。
当時のわたしには、そこまでが限界だった。だって、まだ11才だったもの。
無我夢中で今を生きていて、思い出の大切さなんて、わかる由もなかった。
今ならわかる。ハクはハクでも、自分の思い出の中に生きるハクのことなんだ。
大切な人に、会いに行けないなんてことはない。自分が忘れさえしなければ、いつでも、どんな場所にいても、大切な人には会いに行ける。 自分の胸のうちで、彼らは笑っている。たとえ2度と会えなくても、亡くなっていたとしても。
それを裏付けるかのように、この歌は次のように終わる。
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
大切なあなたは、海の彼方ではなく、わたしのなかにいた。
だから悲しいときは、会いにゆけばいい。
*わたしにとっての「あなた」
人は生きていく中でいろんな別れを経験する。会えない人を思うたび、空や海の青さを実感する。この海を越えていけば、また会えるんじゃないかと叶わぬ夢を抱くこともあるだろう。
わたしも辛い別れを経験したことがある。
中学に上がってすぐ、大親友が海外に引っ越していってしまったのだ。ずっと一緒にいたのに、もうともに成長することができないなんて信じられなかった。海は、文字通り、わたしたちふたりを隔てているように感じた。
「いつも何度でも」を聞くと、なぜか彼女を思い出してしまい、「あなた」に彼女を重ねた。何を隠そう、はじめてもらい泣きした曲もこの歌である。
だからこそ、「海の彼方にはもう探さない」という、この歌の主人公の気持ちが全くわからなかった。あの子は、海の向こうに確実にいるのに。
彼女と一緒に過ごさない日常生活が始まって、新しい友達もたくさんできて、その友達との別れもまたたくさん経験した。もう別れで泣くことはなくなったけど、それはきっと彼女の存在が大きかったからだと思う。わたしには親友がいる、海の向こうで頑張っていると思うと、寂しさが和らいだからだ。
そのときまぶたに浮かんだ親友の姿は、幼い子どもの姿だった。
バカなことをするわたしに呆れている顔だったり、負けず嫌いを発揮してむくれている顔だったり、思い切り走り回って汗をかいている顔だったり。
そういう姿を思い出すと、わたしを呼ぶ声も聞こえるような気がした。
気づかなかったが、きっとそういうとき、わたしはあの子に会っていたんだと思う。
中学の人間関係に悩んだ時も、意味もなく将来に不安を感じた時も、なんども。
20年の時をへて、もういちどこの歌をしっかり聞いてみて、初めてそのことに気づいた。
親友との別れを経験した後も、大小様々の別れがあった。もう一生会わないだろうなという人もたくさんいる。みんな、その当時の自分にとっては大切な相手で、かけがえのない時間を共有した人たちばかりだ。
そんな人たちが、思い出のなかでいつも笑っていてくれると思えば、なんとも心強いではないか!いつでも、会いに行けるなんて。
*「忘れてはいないさ、思い出せないだけで」
もし、忘れてしまったらどうなるんだろう。
大切なことを忘れたくなくて、こうしてブログを初めてみたけれど、思い出は砂のようにさらさらとこぼれていく。
そんな不安に対して、作品中で銭婆婆が千尋に言ったセリフがよい。
千尋はハクの正体がわからなくて、銭婆婆に相談する。昔どこかで会ったことがあるはずなのに、思い出せない。どうしよう、と。すると銭婆婆は、
「忘れてはいないさ、思い出せないだけで」
と言って励ましてくれる。結局千尋は竜の姿になったハクに乗ったときにすべてを思い出すのだが、この言葉が作品を見終わった後もここちよい余韻として響く。
幼少期のことはもちろん、数年前の出来事だってどんどん忘れていってしまうように思うが、それは思い出せないにすぎない。なにかのきっかけで思い出すかもしれない。たとえ一生思い出さなくとも、あったことはなしにはならない。そう思うと、なんだか少し安心する。
やっぱり、千と千尋は「思い出讃歌」の物語なんじゃないかと思ったり。
*うまく走れなかった少女
『千と千尋の神隠し』は2001年公開。千尋ちゃん、10才。わたし、11才。完全に同世代である。
今回大人の目線で千尋ちゃんを見て、自分たちの世代がどう見られていたかがよくわかって、胸が痛んだ。甘ったれで、無気力で、頼りない。走り方すらなってなくて、今にも転びそうになりながら走る。あの、両手をふらないひょこひょことした走り方、わたしもまさにああだった。
千尋ちゃんは油屋で大きく変わった。おどおどする癖は抜け、しっかりと人の目を見られるようになった。
わたしはせいぜい架空の少女に自分を重ねて追体験するだけだったけど、ちゃんと日常を生きて、ゆっくりと変化してきたと思う。
今回ジブリさんがすばらしい企画をしてくれたおかげで、映画館で、当時の自分にも再会できたような気がした。わくわくしながらお話に入り込んでいた、甘ったれでひょこひょこ走りのわたしに。