雑巾も絞れない!?
ある夜のこと。
ダンダンダンと、ドアを叩くものがいる。
「おい、ぽっかおる?」
ダンダンダン。
パソコンで作業をしていたわたしは、ゆっくり顔を上げた。こんなふうにのっけから急かすように叩くのはひとりしかいない。待たせると面倒だ。また変なことが起きたかなと思いながら、そっとドアを開けた。そこには予想通りの相手が立っていた。
「どうしたの?」
「ついに犯人がわかった!」
その子は興奮気味に、物騒な言葉を口にした。
「犯人?」
「ほら、最近の!洗面所の!」
「なんだっけ?」
わたしがピンとこないでいると、その子はだんだんイライラしてきたのか、声を低めて吐き捨てるように言った。
「だから、鏡の水滴事件!」
——ああ、あれか。
そう言われてやっとピンときた。
ここ数日、寮の共同洗面所では、不可解なことが起きていた。
鏡が一面上水滴におおわれて、顔もうまくみれないほどに曇っていたのだ。梅雨の季節でもない。というか、霜や結露といったレベルではない。とにかく、泥混じりの雨が横殴りに吹き付けられて、そのまま残ってしまったという具合なのだ。
1日目はわたしたちがきれいにぬぐっておいた。
2日目、さすがにおかしいぞと思いながら、またぬぐった。
そして今日。
ついにその理由がわかったというのだ。
「誰だったの?」
聞くと、目を輝かせて教えてくれた。
「1年の子。姫。目撃しちゃった」
「なにを?」
「姫、しばらく洗面所の掃除当番だったんよ!怪しいなと思ったから、掃除が終わった直後にもう一度洗面所行ってみたの。そしたら案の定、鏡がまた水滴でいっぱいになってた。あれは奴の仕業だわ」
なるほど、と思いながら、報告するときの楽しそうな様子を見てやれやれと思った。それはまさに、噂好きのおばちゃんさながらだったから(そんなことを指摘したら首を絞められそうだけど)。突き止められて相当嬉しいらしい。
ちなみに姫というのは、その子が勝手につけた悪意のあるあだ名だった。プリンセスではなく、日本古来の、いわゆる平安貴族的な姫に似ているという意味でつけたらしい。
「だから、ぽっか、姫の部屋に行って」
「……え?」
いきなり言われたことばに、反応が遅れた。
「だから、姫の部屋に行って、聞いてきて」
「なんでわたしが…」
「いや、ここはぽっかが言う方がうまくいくでしょ。当たりが柔らかいし。自治会メンバーだったし?」
「え〜、自分でいけばいいじゃん。なんて言えばいいの」
「なんでもいい、先輩としてガツンと!」
そうなのだ、その子は気が強いくせに、矢面に立つのは嫌いな子だった。根っからの妹体質とでも言えばいいのだろうか。そうしてわたしはその子に頼まれると、なぜかついつい引き受けてしまう。
今回もいつのまにか、なんだかよくわからないうちに後輩の部屋にガツンと言いにいくことになってしまった。わたしもついていくから大丈夫などと、丸め込まれて。あれ、なんで応援される方になっているんだ?まあどっちにしても、早いうちに解決しておいた方がいい問題だからいいか。そんな風に納得しながら。
後輩は、鏡のことを指摘されると、ムッとした顔になった。
「あの、今の洗面所掃除って〇〇さんだよね?」
「そうですけど」
「鏡がちゃんとふけてないんだけど、知ってる?」
「いえ、ちゃんと掃除してます」
「ありがとう。いや、でも鏡がまだ汚れてるんだけど…」
「掃除しました」
「うん、でも鏡が」
「ちゃんと紙に書かれてある通りにやりました」
事情を尋ねようとしても、ちゃんと掃除をしたの一点張り。誹謗中傷は許さないといった固い決意が見られる。どうしたもんかなと困っていると、後ろに控えている彼女がイライラしてきたのが伝わってくる。ここで話していても埒が明かない。そこでいったん後輩にも洗面所にきてもらい、一緒に確認することになった。
洗面所の鏡は、やっぱり今日も一面の水滴。
その様子を見せながら、「ほら、こうやって汚れているでしょう?」と諭すように言った。これで納得するかと思いきや、ところがどっこい、彼女はまだ固い顔をしている。でも掃除はちゃんとしました、と繰り返してばかりいる。
どうやら彼女の言い分としては、掃除はちゃんとした、鏡も指示通りにふいた、なにも責められる謂れはないということ。先輩二人に、いちゃもんをつけられるのは心外だということ。気持ちはわからないでもない、ここで掃除ができていないと判断されれば、ペナルティとしてさらに掃除当番の日数が伸びる。それなりに時間も取られる、できれば避けたい事態だろう。
だけど、綺麗になっていないのは事実である。
う〜ん……。どうしたものか。
「分かった、じゃあ、もう一度どういうふうに掃除してたか見せてくれる?鏡をふくだけでいいから。もう一回、最初から鏡を拭いてみせてくれる?」
そう頼むと、後輩は渋々ながらうなづいた。
後輩が掃除しているところを、先輩二人でじーっと観察した。さぞやりづらかったに違いない。しかし、それでやっと問題の所在がわかった。
彼女、雑巾が絞れていなかった。
思わず、「「待って待って待って!」」とふたりで止めてしまったほど。雑巾を水で濡らし、両手に持った、ところまではいい。そのあと、気づくか気づかないかのレベルでほんの少しだけねじり、水がぼたぼた垂れたまま鏡にあてがったのだ。一瞬目を閉じてしまって、絞る工程を見逃したかと思った。だけど、彼女の手に持った雑巾からは水がぼたぼた垂れ続けている。
「え、絞った?」
「はい、絞りましたけど?」
後輩は、心底不思議そうな顔をしている。
「水、垂れてるけど?」
わたしの後についてきた彼女が、まっとうな指摘をした。
「……」
「……」
なんとなく気まずい沈黙が漂った。響くのは、雑巾からしたたり落ちる水の音。たしかに、床にも水滴の跡がついているのが不思議だった。それはこういう理由だったらしい。
「……雑巾の絞り方、教えてあげようか?」
「はい、お願いします」
結局、問題は掃除をしていなかったことではなく、掃除の仕方——もっというなら、雑巾の絞り方を知らなかったことにあった。これまでの18年間、誰にも教わらなかったのかもしれない。あまりにも初歩的すぎて、ずっと見逃されてきたのだろうか。そういう状況があったとき、どう対処してきたのだろうか。
見本を見せながら、持ち方、力を入れる向き、絞り方…と丁寧に教えていった。それでもなかなかしっかり絞れない。その子はそもそも力を入れるということがわからなかったようだった。「もっと!もっともっと捻って!」と言っても、なかなか絞りきれなかった。それでも最初の水ボタボタ雑巾に比べたらずいぶんましになった。せっかくだから自分で絞った雑巾で、もう一度鏡をふかせた。
「あ、きれいになりました」
本人も違いがわかったらしい。
当然だ。
まだ水滴のスジがついており、完璧とは言い難いが、ちゃんと顔が映るようになった。
***
「やれやれだね」
「ほんとだよ」
その後、口の悪い友達とふたりで、事の顛末を笑いあった。しかし彼女も、後輩のことを悪く言うことはなかった。知らなかったのなら、知っていけばいい。その子が次の時にも水滴だらけの鏡で満足していたら、そのとき悪態をつけばいい。
常識だと思っていることって、意外と常識じゃないから。
***
おまけ。
寮では犯人探しがときどき行われる。
中には見つからないものもある。
たとえば、他人が焼いたケーキをつまみ食いした犯人。結局あれは誰だったんだろう……。お腹空いてたのかな……。