イケメン先輩とウブな世間知らずの日曜日
東京のとある町、住宅街の中にたたずむ、3階建。
ハタチ前後の女の子が、共同生活をいとなむ。
そこがわたしたちの家だった。
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つばめ寮に入寮してしばらくたったある日のことである。
わたしはいつもの日曜日を迎えていた。
この日は週に一度だけ、食堂が閉まる日。朝ごはんの時間を気にせずに、9時過ぎまでゆうゆうと寝ていられる日。
窓から入る日の光がだんだんまぶしくなってくる。
やっぱり、北枕でもいいから、枕の向きを逆にするべきかなと思う。
早起きな寮生はとっくに活動を始めていて、どこからか物音がする。
中庭で、誰かが洗濯物をほしているらしい。
「おはようー」
「あ、おはよう」
挨拶を交わす声が聞こえてくる。
すでにバイトに出た人もいるというのに、わたしはいつもの通りぐうたらしていた。目が覚めても、ふとんにもぐったまま、天井の柄を観察したり。
このけだるい時間がなんとも幸せだ。
ドアの外では、誰かが廊下を歩いていて、すでに1日が始まっているのを感じる。
ごくろうさまなことだ。
うーん、このままずっと部屋に閉じこもっていたい。
だがそうもいかない。
なんせ今日は食堂に行ってもごはんにありつけないのだ。空腹で動けなくなる前に、適当におなかを満たさなくてはいけない。
だけどもう少し寝ていたい!
一人暮らし1年目、実家で多少手伝いをしていたとはいえ、料理はからっきしだった。
しかも料理をする機会は週に一度。野菜を買っても腐らせてしまうし、自炊する気なんてさらさら起きない。
1合炊きのタッパーで米を炊いて、それにふりかけをかけるか、納豆をあわせるか。おかずが欲しかったら、もずくか豆腐。これが日曜日の定番メニューだった。ちなみに、おやつももずくか豆腐である。賞味期限が切れるまでに食べちゃわないといけないから。
我ながらひどい。
寮生でも、毎日自分でお弁当を作ってる人もいたから、腐らせるっていうのは言い訳にならない。本当なら。
そんなテンションの上がらない朝ごはんの算段をしながら、なんとかふとんから抜け出た。
洗面所に行くと、デートにでも出かけるのか、ちゃんと小綺麗にした先輩が歯を磨きおわるところだった。
「おはようございます」
先輩はちらっとこちらに視線を向けると、にこりとすることもなく、いなくなってしまった。まるでわたしに興味なんてないかのように、いや、実際まったくないのだろう。
まだ上京してから日が浅く、日曜日に出かける友達もいなかった。
朝ごはんを食べてしまったら本格的に暇になる。
ひまだなあ。
買い物にでも行こうかなあ。
勉強でもするかなあ。
事件は、そんなふうに暇をもてあましていた、午後に起こった。
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ドンドン
ドアを大きくノックする音がした。
「おい、ぽっか、いる?」
ドンドンドン
ちなみに、このとき居留守は使えない。なぜなら、寮生は外出するときに必ず外出ランプを点灯するから。
「はーい、いますぅ」
ドアを開けると、先輩が立っていた。
「おはよう。お、もう着替えてんじゃん。これからどっか出かけんの?」
「いやー、どうしようかなあって思ってるところでした」
「やっぱそうか、おまえバイトしてないって言ってたもんな。今日することないの?」
「うーん、買い物か勉強か、それくらいです」
「勉強!まじめかよ」先輩はひゃひゃひゃっと笑うと、「それならちょっとうちの部屋こないか?」と聞いてきた。
わたしは暇をもてあそぶという、自分としては有意義な休日をすごしていたので、そのままひきこもっていたかった。だが、先輩の誘いなら断るわけにもいかないだろう。
「じゃあちょっと片付けてから行きます」
と答えた。
ちなみにどうでもいいことだが、この先輩、イケメンである。
背は高くないが、筋肉質で、スポーツのできそうな体をしている。茶髪パーマがちょっと浮ついた雰囲気を醸し出しているが、本人によく似合っていた。
年上にも年下にも、気安く声をかけるタイプで、スキンシップも多め。廊下でも、先輩が他の人に触っているのをよくみた。
ただし、れっきとした女である。
(最初入寮した時は、なぜ女子寮に男がいるのかとびっくりしたものだ。すぐに誤解は解けたけど)
わたしは自分の服装を見た。紺色の、ミニのワンピース。着替えようかなあと思って、それは失礼だと思い直す。すでに姿を見られているし、今から着替えたのでは、警戒しているみたいだ。密室で二人きりだからといって、そんな意識することない。
先輩は言っていた。
自分の恋愛対象は、年上だ、と。
わたしは年下だから、下心なんてないに決まっている。
どうしようかなあ、不安だなあ。
それでもちょっと迷ってしまった。いや、本音を言うと、だいぶ。
そう、その先輩は、つい先日、自分の性的指向をカミングアウトしてくれた。
出会ってまだ数ヶ月なのに、信頼してくれたのかな、とそのときは嬉しく思った。
しかし、密室でふたりきり♡となると、話は別である。
もしかしてわたし気に入られてる!?
守備範囲ひろがった!?
と警戒してしまっても、仕方ないではないか。
ひとしきり悩んで、結局そのままの格好で行くことにした。ただしいざというときのために、携帯を片手に。
コンコン
「ぽっかです」
ドキドキしながらドアをノックすると、「お、入れ」と返事が来た。
「お邪魔しま〜す」
一歩踏み入れると、同じ間取りのはずなのに、なんだか狭く感じた。
まず物が多い。本棚も本で埋められている。食器も揃っている。壁には紫色の、なにやらおしゃれな布が垂れ下がっていた。
そして、甘くてスモーキーな匂いが充満していた。
……も、もしかして、あやしいクスリ!?
嫌な予感が頭をかすめて、心臓がドキドキ言い始めた。どうしよう、やっぱり東京は怖いところかもしれない!人を信用しちゃいけなかったかもしれない!後悔がおそってくる。
勧められてベッドに腰掛けると、先輩も隣に腰掛けてきた。
いつもなら気にならない距離なのに、やけに近くに感じて、またドキドキが大きくなる。
「どう、東京には慣れた?」
「大学ではなに勉強してんの?」
会話の内容はあまり覚えていないが、ありきたりの、先輩と後輩の会話だったと思う。親切にいろいろ聞いてくれていたはずだ。
だが、充満する匂いとシュチュエーションで、わたしの頭はいっぱいいっぱいだった。
と、そのとき、先輩がわたしの太ももに手をのせた。
とっさに払うこともできず、わたしは固まった。
太ももに手。
今まで、異性にすら触られたことのない、領域!!!
話の内容が一切入らなくなってしまい、わたしの頭は混乱を極めた。
どうしようどうしようどうしよう……
どうしようどうしようどうしよう……
はっとひらめいて、メールを確認するふりをして、別の寮生にメールを送った。
【理由は聞かないで。今すぐ、わたしに電話して】
祈るように電話を待っていると、やっと着信音が鳴り響いた。飛びついた。
「あ、タマキちゃん?どうしたの?え、今から?今先輩の部屋にいるんだけど……わかった、じゃあそっち行くね!すぐ行くからちょっと待ってて!」
わたしは怒涛のように言いきった。相手は最初何か言っていたが、とりあえずまるっと無視した。
電話を切ると、先輩の方を見て言った。
「すいません先輩、ちょっとタマキちゃんが今すぐ部屋に来てほしいって言ってて。申し訳ないんですが、失礼してもいいですか?」
先輩は虚をつかれたような顔をしたが、朗らかに笑って、部屋から出してくれた。
タマキちゃんの部屋に向かう間、心臓がまだドクドク言っていて、わたしは大きく息をついた。過剰反応だったかなという不安感と、部屋を出られた安心感がないまぜになって、気分がやたらと高揚していた。
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今思うと、あれは本当に、過剰反応だった。
だって、完全に、先輩は親切心から誘ってくれたんだもの。
部屋に充満していた怪しげな匂いは、先輩が愛用していたお香だったということもあとから判明した。わりと寮内の広範囲に漂うから、ほかの寮生から苦情もあったみたいだけども。
ひとりで妄想を膨らませて、バカみたいだった。
恥ずかしいから、タマキちゃんにもくわしい事情は話せなかった。
自分では性的マイノリティに対する偏見はないと思っていたが、カミングアウトしてもらったことで、もしかしたらどこかで警戒してしまっていたのかもしれない。
とっても恥ずかしい思い出。
でももう一度言いたい。
わたしはまだ、恐ろしいほどウブで世間知らずだったのだ。男女のあれこれに対する知識もなく、「太ももに手」という状況だけで、頭が真っ白になるタイプの人間。そういう不慣れな人間は、不用意に触ってはいけないのだ。勘違いするから。
これは、男女問わず!!!
後日談。
実は、その先輩とはいまだに仲良くしてもらっていて、なんだかんだもう10年以上の付き合いになる。こんなふうに思ったことがあるなんて、秘密だけど。ふふ。
18歳の日曜日の話でした。